
Trip Trap Fullmoon
brainstorm
三条二円
びくりと体が痙攣した気がして目が覚めた。この現象を何というのだったか。いつかどこかで名前を見たような気がするけれど、ちっとも思い出せなかった。
また、飲んでいる途中で寝てしまったようだ。立ち上がろうとした拍子に蹴り飛ばしてしまったテーブルの上を、酒瓶とグラスが転がり落ちていく。割れて砕けるその派手な音に頭が痛んだ。
適当な魔法を使って破片をまとめ、部屋の隅に置いやった。幸い中身はほとんど空だったために、床は大して汚れていない。新しい酒とグラスを戸棚から取り出し、グラスに注ごうかというところで俺はふと思い付いた。何故丁寧にグラスへ移し替えていたのだろう。腹に入ってしまえば全部同じなのに。俺は、封を切った酒瓶に直接口を付けた。
もう何日迎え酒をしているのかもよく思い出せない。この国でなら、喉が焼けるような強い酒を飲まなくても寒さに震えることなどありはしないのに。それでも、酔っていない時がどうだったのかを考えたくもないから、あるだけの酒に溺れている。真っ直ぐ歩けているのかもよくわからなかったが、俺は酒瓶を抱えたまま倒れ込むようにしてベッドに横になった。
寝返りを打って仰向けになる。見覚えのあるような、ないような天井。酔いか疲れか、ふわふわとした心地に身を任せていると瞼が落ちてくる。
それなりに小綺麗だったはずの部屋の中は、荒れ放題と言って差し支えなかった。俺の小さな仮住まい。ここは、中央の国の中でも南寄りの、そこそこ人の流入がある街だった。
完全に人から離れて暮らすつもりがないのなら、ほどほどに人口の多い場所の方が都合が良かった。商人が立ち寄ることが多かったり、大きな市があると尚良い。西や東の国境に近い場所は騎士団の目もあるし、ここは流れ者が行き着くにはちょうど良い場所なのだった。
どこから来たのかなどと何の気なしに聞かれることはあっても、余所者に対しお前は何者なのかと深入りされるようなこともない。中央の国は東の国より魔法使いへの迫害は少ないが、人に紛れて暮らす魔法使いたちにも警戒心はそれなりにあるようで、お互いの正体がわかっても下手に吹聴しないことを暗黙の了解としているようだった。
運がいいのか悪いのか、俺の顔は別に売れていない。あいつだって顔より名前の方が売れているだろうが、特徴的な髪や顔の傷についての噂話を聞いたことがある奴なら、思い当たることもあるかも知れなかった。隠れて暮らすのなら変身の魔法が必須だろう。だから、俺は凡庸で良かった、のだろうか。
残党狩りが行われたとも風の噂で聞きはしたが、結局、どうやったって俺たちを俺たち足らしめているのはあいつの存在なのだ。頭を欠いた有象無象が助けに行こうと躍起になったたところで、一網打尽にされる様子を想像することは容易い。
「おまえも居なかった訳だしなあ、ネロ」
「……うるせえよ」
またこれだった。何もかもを忘れたくて飲んでいるのに、思い出したくないことを思い出したり、考えたくないことを考えてしまったり、気分が落ち込むことの方が多い。最近は特にそうだ。
「忘れたいなら魔法を使えばいいだろ」
俺の妄想で作り上げられた幻覚のブラッドは、酒瓶を投げつけても消えはしない。床に広がった酒に視線をやって、もったいねえな、と呆れたように呟くその仕草は本物そっくりだった。まあ、俺の頭の中のブラッドなのだから、俺の思った通りであることは当然だ。
「……そんなもん、俺が一番わかってるに決まってるだろ」
例え粗悪な安酒でも、ただ酩酊するためだけに飲まれる酒は勿体ない。そう感じていても、料理をすることはひどく面倒で、酒に合うつまみを考えることでさえも億劫だった。酒の風味が悪いなら、後味がよくないのなら。飲んでいる時間を楽しむだなんてことと今の自分の状況は正反対だった。飲んでなければ居られないし、飲んでいたってこうなのだ。
忘れたいなら魔法を使うべきだとも、理解はしている。こんな風に中途半端に誤魔化すくらいなら、本当になかったことにしてしまえばいい。すっかり全てを忘れてしまうことくらい、魔法使いならば容易に叶えられる。それは至極簡単なことのはずなのだ。
「辛気臭いツラしてんな」
誰のせいだと思ってんだ。悪態をつく気力もなくて、部屋の中を横切るブラッドを目で追いかけた。ブラッドは、酒瓶を拾い上げてわずかに残る中身を煽った。俺が事実愚かなのだとしても、嘲笑するように見下ろされることは不愉快だった。
手放したくせに、全てを忘れてしまうことは恐ろしい。百年でも経ったならまだしも、まだ生乾きどころか血を流している傷を前にして手を差し込めるほど、俺の神経は太くなかった。
ブラッドと出会ってからの全てを捨て去ったら、俺は俺であると言えなくなることは間違いなくて、そのことを突きつけられるとどうやったって正気を手放してしまいたくなる。だからこそ、ブラッドと関わってから得たものは、直接あいつが関係していなくても、残しておくことが困難な記憶なのだ。
絡まり合った記憶を選り分けて引っ張り出したり消したり書き換えたり、そういう厄介な作業そのものは不得手ではない。けれども、自分がそれをされる対象で、見たくもないものを直視する羽目になるのは御免だった。
料理屋でも開こうかと思っているこの気持ちすら、あいつが居なければ俺一人では持ち得なかったものだからどうしようもない。突き詰めてしまえば、俺の根幹にあるものはブラッドなのだ。ブラッドがいなければ生きていなかっただろうし、何が好きで何が嫌いで、何をされたくなくて何で喜ぶのか、そのほとんど全てはブラッドと出会ってから身に付いたものでしかない。
「俺様だって、てめえがいるからこそ無茶出来てるんだぜ?」
「よく言うよ」
ブラッドの根幹にあるものは、どう足掻いたって変わりようのない、北の魔法使いらしい矜持だ。命を落とすことよりも、挑戦をやめることや侮られたままで生きることを嫌悪している。そこに譲歩などありはしない。
俺だからこそ、なんてものは存在しないのだ。必然性なんて空想だ。「ネロだからこそ」と言ってもらえるような存在になれたという自負があった頃もある。けれども、今となっては俺ではなくとも相棒と呼べるような存在があいつの前に現れたろうなと思うだけだった。
あの頃の自分を思い出すと羞恥心でどうにかなりそうだ。たまたま、俺がそうなれただけの話。俺の方は、そうじゃなかったのにな。
つれないこと言うなよとか、そうやって機嫌を取ってくるおまえに付き合うのはもう懲り懲りなんだ。その場だけの言い訳はもう聞き飽きた。宥めすかされても脅されても、とっくに無理になってたんだよ。
自分で決めたくせに傷ついてるなんて馬鹿だと、ブラッドが俺を嘲笑った。そんなものは当然だ。俺があんたより馬鹿じゃなかったことなんてないだろう。
俺は、本物そっくりのブラッドに手を伸ばした。幻覚とは都合のいいもので、掴まれた手には確かに厚みも温度もあるような気がした。ただ俺の頭がどうにかしているだけなのに。
二度とブラッドと会うことはない。いくらあいつと言えど、約束をさせられて監獄に閉じ込められているのであれば、外に出る方法は存在せず、生きている間に刑期が終わるとも限らない。仮に生きて出て来られたとしてもその頃には俺の方が石になっているだろう。
だから、もし、もしもだ。あり得ないけれど、偶然なんかじゃなくて俺が俺の意思で逃げたのだと知ったら、あいつはどうするのだろう。殺されるとして、どんな顔で殺してくれるのか。
気持ちよく眠りにつきたかっただけなのに、酒に飲まれてあれこれしょうもないことを考えてしまったせいか最悪の夢を見た。あれは、幸せな家庭に生まれた夢を見て、少し嬉しくて、ひどく惨めな気持ちで目覚めた日よりも最悪だった。
あの日、幸せで暖かいはずの夢の記憶を思い返してみた俺は、もう顔も覚えていない父親と母親がどちらもブラッドであったことに気がついた瞬間、吐きそうなくらい胸糞が悪くなって、朝から飲んだんだっけ。
今日見た夢の中では、牢獄に囚われているはずのあいつは賢者の魔法使いとして選ばれ、制限付きとはいえ自由を得ていたのだ。そして、どうしてか俺も賢者の魔法使いとして召喚されることになった。
賢者の魔法使いの役目は絶対だ。それだから、俺は今後一生、役目を終えるか死ぬかするまで、厄災を倒すため一年に一度は必ずブラッドと顔を合わさなければならなくなったのだ。
あんなもの、考えうる限り最も忌まわしい悪夢だ。あいつの悪運の強さを考えれば、あり得てしまえそうと感じてしまうことも心底不快だった。
顔でも洗おうと向かった洗面所の鏡の中では、落ち窪んだ目の男が無表情に俺を見つめ返している。その頬に紋章が浮かび上がったような気がして、俺は反射的に鏡を叩き割った。もう、放っておいてくれ。