top of page

春霞

三条二円

 こんなにも幸せと思ったことはないだろう。肩口に感じる重みは何よりも大切だった。私に寄りかかって暖炉の火にあたる晶の横顔は、柔らかな笑みを湛えている。私と同じように今日のことを思い出しているのだろうか。

 目が合うと、晶は控えめに私の手を握って目を伏せ、こう囁いた。こんな日が来るなんて思っていなかった、と。それがこの世界に来てしまったことなのか、私と生涯を誓ったことを指すのかはわからない。ひょっとすると両方かもしれなかった。

 私だって、こんな日が来るなんて思いもしなかった。彼女は賢者の魔法使いを束ねる賢者様で、異世界からの訪問者で、この世界では非常に重要な人だ。引き換え、私には何もない。恋人になれただけでも天地がひっくり返るほど驚いたし、何度都合の良い妄想なのではと疑ったことか。それが、結婚までして、二人で暮らすことになるなんて。

 彼女が私を好きだと告げてくれたあの日のことは今でも夢に見る。元居た世界へ帰りたくない訳じゃないのに、今だけでもそばにいたくてどうしようもないのだと、困ったように眉を下げる彼女はたまらなく愛おしかった。私は、いつかこの世界からいなくなってしまうかもしれないのにこんなことを言われたって迷惑だよね、と痛々しく微笑む彼女を抱きしめずにはいられなかった。

 だからと言って、彼女を支えられるだけの存在になんてなれるとは少しも思っていなかったのだ。冗談や戯れで一緒になりたいと口にしたのではない。関係性を変えたくはあった。けれども、やっぱり負担にはなりたくなくて。嬉しいと泣いた彼女に、帰る方法が見つかったら私のことは気にしないでいいよと伝えたら、そんな寂しいことを言わないでと怒られてしまった。離れ難いに決まっていても、晶が幸せならそれが一番だよと言い訳をしたら、余計に泣かせてしまったのだっけ。

 

 今日の式は、晶の希望により身内だけのささやかなものであったが、彼女を慕う人々の尽力もあり記憶に残る素晴らしいものになったと思う。賢者の魔法使いであるクロエさんが作ってくれた真っ白なウェディングドレスは、どんな言葉でも不足だと思うくらい晶に似合っていて、彼女の魅力を引き立てていた。それに、聖ファウスト聖堂を貸して貰えるなんて、思ってもみない幸運だった。

 アーサー様の心遣いには頭の下がる思いだ。盛大にお祝いしようという提案を断ってしまったのはこちらなのに、こんなにも素晴らしい贈り物をされてしまっては感謝してもしきれない。

 グランヴェル城で執り行なうだとか国の祝日にするだとか、楽しげに希望を語るアーサー様とそれを必死に止めようとする晶はとても親しげに見えた。ドレスを作りたいと声をかけてくれたクロエさんや、あまり派手なものにしたくないという晶の気持ちを尊重しつつも、折角なのだから結婚式とは別にパーティをしたらどうかと企画してくれたカインさんのお陰で、その頃には賢者の魔法使いへの恐れはすっかり形を潜めていた。

 魔法使いたちに挨拶と報告をしに行った日は、彼女に結婚を申し込んだ時より緊張していたと思う。

 彼女の話に登場する魔法使いたちは面白くて、楽しくて、時にはちょっとわがままで扱いに困るようなこともあるけれど人間とそう変わりないように感じていた。けれども、どうしたって魔法使いである。私が賢者様を彼らから奪うような立場だと、彼らの暮らしを害する人物だと思われてしまわないかと危惧はしていた。こんなやつは賢者様に相応しくないと、カエルにでもされてしまうのではないかと想像して震えていたくらいだ。

 そんな風にして怯えている私を和ませるためだったのか、何か深刻な話を持ち出そうとしている気配のある晶の機嫌を取るためだったのかはわからないが、全員が猫の姿で私たちを出迎えてくれた時から、恐ろしい魔法使いというイメージはかなり薄れていた。

 それにしても、聖ファウスト聖堂は本当に雰囲気のある場所だったな。中央の国に、ここよりも格式が高く、祝いの場に相応しい場所はないだろう。偉大な魔法使いファウスト様にあやかるこの場所で、魔法使いと人間が手を取り合ったように、異界から訪れた彼女と私が家族となる誓いを立てられるなんて身に余る光栄だ。祝福の魔法の光に彩られた祭壇の幻想的な様子は、いまだ瞼の裏に焼き付いて離れない。ラスティカさんのピアノの演奏も実に素晴らしかった。

 ふと肩にかかる重みが増したような気がして晶の方を見遣ると、彼女はすやすやと寝息を立てていた。気を張っていて疲れたのだろう。起こさないようにそっと絡められた指を外して、彼女をソファに横たえた。寝室から取ってきた毛布を寒くないように掛けてやって、私はそばの椅子に腰かけた。

 私の手を握って離さなかった彼女の左手の、細い薬指にはシルバーの指輪が収まっている。これは、彼女の故郷の習慣に倣って私が贈ったものだ。揃いの指輪を薬指に嵌める、結婚指輪という文化があると聞いた私は折角だから私たちもやらないかと晶に相談した。晶はとても喜んで、宝石のことならとムルさんに話を持ちかけたのだった。

 ムルと呼ばれるその人が偉大な発明家ムル本人であることにも驚いたが、異世界の文化についての話を根掘り葉掘り聞いてくる勢いにはもっと驚かされた。

 掴みどころのない態度とは裏腹に、彼の見立ててくれたダイヤモンドは一級品で、紹介してもらった宝飾職人の腕も相当のものだった。飾り気の少ないものこそ誤魔化しが効かないだろうに、簡素なその指輪はどこから見ても美しいとしか言いようがない。

 いつの間にか私もうたた寝をしていたのか、晶に揺すり起こされて目が覚めた。もう寝ましょうかと言われて私は頷く。暖炉の火を消して、真新しいベッドに二人で潜り込んだ。晶が律儀に置いたと思しき枕元の目覚まし時計を見つけて、私は小さく笑った。これはフィガロさんがくれたものだ。

 いつかの、非常に強力な厄災が訪れた年に晶はこの世界に来たのだそうだ。それからというもの魔法舎にはあちこちから厄災の影響による異変を解決して欲しいという依頼が舞い込み大変だったと聞くが、今では賢者としての仕事などあってないようなものなのだという。

 だから、厄災の前後でもない限りは少しくらい寝坊して、魔法舎に行くのが遅れたって誰も困らないらしいのだけれど、新婚さんには必要でしょうなんて目覚まし時計を渡された。その意味がわからないほど、私たちも鈍感ではない。以来、私の中でのフィガロさんは、美形なのにちょっと下世話で配慮に欠けるおじさんという認識で落ち着いている。

 腕の中の晶が、私の考えを見透かしたようにくすくすと笑い声を上げた。ふかふかで大きな枕はよく眠れるようにとミチルさんがくれたものなので、余計落差に笑ってしまう気持ちはなくもない。

 この家には、魔法使いから贈られたものが他にもいくつかある。立派なダイニングテーブルはヒースクリフさんが贈ってくれたものだ。テーブルウェアは東の国の皆で選んだのだと、ブランシェットの工芸品とブランシェット家のことを自慢気に紹介してくれたシノさんが教えてくれた。

 天窓にはスノウさんとホワイトさんが作った美しいステンドグラスが嵌まっているし、ミスラさんのくれたおどろおどろしいオブジェは置き場所に困ったままになっているけれど、賢者の魔法使いたちを所々で感じられるこの場所が彼女にとって安らげる空間であればそれでいい。ルチルさんが描いてくれた中々に個性的な結婚式の絵は、居間にでも飾ろうと思う。

 我ながら、内装も外観も立地も、いいもの尽くしの家だと感じている。ここは魔法舎からほど近い街の外れにあるのだ。晶は魔法舎を出て暮らすことに少し不安がありそうだったので、歩いてでも通えるような場所を選んだのだった。

 魔法舎で暮らさなければならない規則などはないが、異界から来た賢者様は、賢者の魔法使いと関わることはまだしも、出掛けることすら恐れて魔法舎に引き篭もることも多いのだと教えてくれたのはシャイロックさんだ。

 知り合いどころか頼れる人もいないし、魔法などという知らない力のある世界をうろつこうなんて、確かに私でも考えない。引きこもりたくもないが、そうでもしなければ安心できないだろう。

 とはいえ、彼女が賢者として選ばれたばかりか大変な年に当たってしまったことを申し訳なくは思うが、そうでなければ私とは出会えなかったのだから、どうにも複雑な気持ちだった。

 彼女が魔法使いたちと仲良くなって、この世界で様々なことを経験し、一人で街を出歩くようにならなければ、私は彼女の顔すら知らないままだっただろう。

 勇気があって、賢くて優しくて、猫のことになると少しばかり様子がおかしくて、期待に応えようと無理をしてしまいがちな彼女が、どうして私を好きになってくれたのかはわからない。彼女を賢者としてでなくただの友人として扱ってくれる人なんてものは、きっと、私じゃなくてもいるはずだ。

 だから私は、出会えた幸運と選んでくれた幸福を噛み締めながら、この世界で彼女をひとりぼっちになんてさせないように、寂しいなんて思わないように、大事にすると決めたのだった。

 いつか別れるだなんて、異世界の人でも魔法使いでも、それは誰しもに平等に訪れる。別れを想像して彼女の手を取らないより、今を精一杯生きたかった。明日も忙しいからゆっくり休もうね、と呟きながら私を抱きしめる彼女の胸元に顔を埋めて、私も目を閉じた。二人分のぬくもりが心地よくて、私はあっという間に眠り込んでしまったのだった。

 もっとも、明日のパーティが終わったらしばらくの間は仕事を休んで大陸中を巡る旅行を予定しているから、今は無理をする機会なのだった。新居への引っ越しも結婚式の用意も旅行の準備も、このところずっとやることはたくさんあった。楽しくて忘れていたけれど、疲れてはいるのだろう。

 旅行では、彼女が今までに任務で訪れた場所を再訪したり、魔法使いたちにおすすめされた場所を回ることになっている。本当はもっと早く色々な場所に行ってみたかったそうなのだけれど、一人では心細いし魔法使いたちに案内を頼むのも気が引けると思っていたらしい。私にだけそうやって遠慮せずに打ち明けてくれる彼女を、私は生涯愛し続けるだろうし、例え離れ離れになっても想い続ける自信があった。

 特別な、異世界から来た賢者様ではなくて、ひとりの真木晶という人間として。

 

  ◆

 

 私は読んでいた日記帳を閉じた。実に半年振りに帰って来た我が家はなんだか知らない場所のようだった。額の縫合痕が痛むような気がして気分が悪く、私はベッドに横になった。

 私が目を覚ましたのは二週間前のことだ。旅先で馬車が落石に遭ったらしい。頭に怪我をした私は一ヶ月も眠っていたそうなのだ。

 同乗していた方は亡くなられましたと言われてもピンとこないでいる私に、医者は記憶の混濁が見られるようですねと言った。連絡先もわからなかったし、唯一話を聞けそうな私も意識不明だったので、彼女の遺体はとりあえず街の共同墓地に埋葬されたそうだ。

 それからなんだかんだと検査をして、一週間歩いたり馬車に揺られたりして、昨日やっと家まで戻って来られた。幸い、自分が誰なのかやどこで暮らしているかを忘れてはいなかったため、無事に帰ってくることは出来た。

 帰ってくる間、毎日つけている日記を読み返してみたものの、結婚したことや旅行に出掛けたことを思い出せても、彼女のことを些細に思い出そうとすると頭の中に靄がかかったようだった。

 手持ちの日記は旅行に出てからのものだったので、家にあるものを遡って色々と読み漁ってみたけれど、やはり結果は同じだった。読めばそうだったと感じはするが、ふと思い出せるようなことがない。それどころか、日に日に思い出せなくなっているような気さえする。

 好きだったことも、幸せだと思ったことも、間違いはないと思う。確かに、優しい彼女の隣は居心地が良かった。それでも、私は日記を読むまで指輪のことがわからなかったし、飾られていたルチルさんの絵も、居間に置くには少々派手で変わった絵だなとしか感じていなかったのだ。そういえば、彼女もいつも日記をつけていたから、お揃いだねと笑いったことがあったっけ。あれは、そう、賢者の書だとか言ったか。

 賢者様。そういえば、賢者が亡くなったなら賢者の魔法使いや中央の国役人たちからなんらかの反応があってもいい気もするが、それはなかった。厄災にも賢者の魔法使いにもさして興味がなかったためにうろ覚えだけれど、賢者様も何年かおきに代わるのだとか聞いたような聞かなかったような。

 ひょっとすると、まさか、もう魔法舎には新しい賢者様がいるのだろうか。頭の怪我のせいだというのなら、魔法使いにどうにかしてもらえるだろうかという打算もあり、私は魔法舎に行ってみることにした。

 

「賢者様の配偶者? ほんのひと月前にこの世界に来たばかりの賢者様にそんな相手がいる訳がないだろう。大方西の国の奴等の差金だろうが、私を騙したいのならもう少しマシな嘘をつくことだな」

「いや、その、私は……」

 私は彼女の顔もよく思い出せないのに、新しい賢者様がいると聞いて傷ついている。前の賢者のと告げても、この門兵もあまりよくわからないようだった。新しく賢者が現れたら、晶のことはもうどうでもいいということなのだろうか。

「前の、前の賢者のことは誰か知らないだろうか。私が結婚したのは彼女なんだ」

「あー、ああ、確かに、前の賢者様の結婚パーティに呼んでもらったような……?」

 私は何とか魔法使いたちに取り次いでもらえるようお願いした。出来ればアーサー様と話したかったけれど、この際わがままは言っていられない。

「そうか、あなたは知らないのだな。賢者様が代替わりすると、前の賢者様の記憶はなくなっていくものなんだ。現に私も言われるまで結婚パーティのことをすっかり忘れていた。それで、何だ、新しく賢者様が呼ばれたってことは、彼女は元の世界に帰れたのかい?」

 私は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。彼女は、晶は死んだはずだ。遺体を改めた訳ではないけれど、医師から聞いた特徴は日記の中の記述と一致していた。この世界で、賢者として立派に役目をこなしていつも健気に頑張っていて記念碑を建てられたっていいくらいの人だというのに。死んだということすら気づかれず、今まさにそうであるように、私も彼女を忘れてしまうというのか。

 私は門番に礼を言って、ふらふらとその場を離れた。もしここからでも新しい賢者様の姿が見えてしまったら、叫び出してしまいそうだった。

 賢者は忘れられてしまうと教えてくれなかった晶は、何を思っていたのだろう。帰れることになったら、その時教えようと思っていたのだろうか。それとも、年老いてもう寿命かもしれないという頃に、話してくれるつもりだったのだろうか。旅行中に言うつもりだったのか、帰って来たら言うつもりだったのか、そもそも伝える気はなかったのか。晶も実は知らなかった、とか。

 私は大通りの脇にあるベンチに腰を下ろしてしばらく呆然としていた。道行く人を眺めるばかりで、何も考えられない。

 そうして、何時間経ったのだろう。辺りが暗くなる前に家に戻らなければ。

 市場を抜ける途中、いつも軽食を買っていた露店のおばさんが、顔色が悪いよと心配して声をかけてくれた。ここのサンドイッチを晶は気に入っていて、ネロさんの作るサンドイッチと同じくらい美味しいとよく褒めていたっけ。ここのサンドイッチが世界一だと信じて疑っていなかった私は、ネロさんのサンドイッチをご馳走になった時、疑ってごめんと晶に謝ったのだ。

 何があったか知らないけどこれでも食べて元気を出しな、と渡してくれた包みをダイニングテーブルで開いた私は、ようやく悲しむことが出来たように思う。何を憚ることもなく、声を上げて泣いてしまった。

 いつものやつだよと渡された包みの中には、私が好きなチキンのサンドイッチと、晶が好きなトマトとハムのサンドイッチが入っていたのだ。生のトマトが少し苦手な私は、晶がいなければこれを買うことは一生なかっただろう。彼女は確かにここにいたのに。

 もし彼女の墓をこちらに移したとして、私が晶を完全に忘れてしまったら誰からも忘れられた場所になってしまうのかと思うと恐ろしくて、もう、何をしたらいいのかもわからなかった。泣きじゃくりながら、全てを押し込めるようにサンドイッチを咀嚼しては飲み込んだ。

 サンドイッチを食べ終えて、泣くことにも疲れ切った私は冷たいベッドに横になった。その瞬間、思いがけず柔らかな晶の感触と体温が脳裏に閃いて、涙も枯れ果てたと思っていたのに取り乱してしまった。いつまで覚えていられるのか、晶がいない日常を普通と思ってしまう未来が、恐ろしくてたまらない。

 それでも彼女と出会わなければよかったなんて到底思えなくて、仰向けになった私は、キッチンに置いてある謎の食材を思い浮かべていた。気持ち米、気持ち昆布、かなり味噌。明日はおじやでも作ろうか。ため息を吐いて目を閉じた私は、晶が今はゆっくりと休めていることを願うばかりだった。

bottom of page